遥かなる南太平洋


船 みなと・港のエピソード 8

1964年(昭和39)3月4日、神戸で日産丸に乗船。二等機関士。
日産丸は3度目の乗船で、馴染みのインド・パキスタン定期航路。

4月1日をもって、日産汽船株式会社は「昭和海運株式会社」と変更された。
外国航路商船会社の再編成によって、16社の海運会社が6社に再編成されたのである。
このことで、昭和海運は定期航路やバラ積み貨物船の日産汽船と、
油タンカー専門会社の日本油送船が合併して、外航海運大手の一社として再出発したのだ。

今回は、マレーシアのペナン(Penang)とシンガポール(Singapore)について書きましょう。

ペナンはマラッカ海峡の要所にあり、昔から厳しい環境におかれていた。
1826年、ペナン、マラッカ、シンガポールとともに、「海峡植民地」として、
イギリス「東インド会社」に占拠されていた。
戦時中は日本の潜水艦隊基地として、インド洋方面に睨みをきかしていた。

ペナンでは錫とゴムを積みこむ。海峡は潮流が早く海はきれいだが、
大量のくらげが襲来するので、海水取り入れ口が閉塞されるから「くらげ当番」が必要だ。

ペナンには有名な「蛇寺」(snake temple)がある。
なにせ、寺院内は庭も寺の内部も蛇だらけだ!
蛇の種類も多いが、なかでも白蛇が御仏の使いとして大切に飼育されていた。
庭を歩いていると、近くの木からポトリ!と落ちて、飲み込んだ卵を割るようだ。
参拝者は足元を見ながら歩くから、上から落ちてくると悲鳴をあげることになるのだ!

ここには、イギリスがペナンを植民地にした当時の要塞跡があり、

イギリス・東インド会社当時の城塞跡 jun.1994
イギリス・東インド会社当時の城塞跡 jun.1994

戦時中、日本軍が構築したトーチカが海峡をにらんで、海岸線近くに残っていた。
マラッカ海峡の要所にある島の運命だろうか、厳しい過去の事実を検証する感じだった。
住民の大半は中国系で、他はマレーシア人とインド人だが、中国人に比べるとごく少ない。

何回目の蛇寺行きだったろうか、タクシーで向かったときのことだ。
タクシーがゴムの木に衝突して大破した。
運転手は買ったばかりの「オースチン」(イギリス製)を快調に飛ばしていたが、
右前輪が脱輪して、路肩からゴム園に高速で突っ込んだのだ!

車は大破し、運転手はフロントに顔を突っ込んで大けが!
エーブル君は後部座席だったので、かすり傷ですんだのは幸いだった。
運転手は大いに嘆き、気の毒だったが、別の車を呼んでくれたので蛇寺に向かった。
軽症ですんだのは、霊験あらたかな「蛇寺」に行くところだったからかな?

ペナンは海鮮料理がおいしく、特に蟹がおいしかった!
茹でたての大きな「渡り蟹」にタバスコの一滴は「値千金」だ!
シンガポールで印象深いのは1965年(昭和40)8月9日。
エーブル君たち、若手士官たちがナイトクラブからいい気分で船に戻るとき、
中国系とマレー系住民に対立抗争の暴動がおきた!

住民の大半を占める中国系と、それに不満なマレー系住民の鬱積した感情が一気に爆発!
街を歩いていたエーブル君たちは中国系住民に間違われ、
「#£§@○⊆⊃∈・・・・(>_<)!!!」
暴動現場に行くトラックの荷台に乗っている青年たちが、
バットや棍棒をもって、どうやら一緒に加勢に行こうと誘っているらしい!

巻き込まれるとあぶない!と直感したので、日本語で話したらそれ以上誘わなかった。
街は騒乱状態だから船に戻れないかな?と思案しているとき、警察車が近寄ってきた。
これ幸いと保護を頼んだ。

エーブル君たちはその夜、留置場で朝まで休み、昼ころになって船まで送ってもらった。
留置場はエーブル君たちばかりでなく、ほかの外国人もたくさんいたので超満員!
あとにも先にも、留置場に厄介になったのはこの一回だけだ。

帰船すると、船長や機関長はえらく心配したようで、どうやら一睡もしていないらしい。
暴動は数日続いたので、荷役もなく、外出禁止で町の暴動が収まるの待った。
暴動の発端はわからないが、他民族構成国の日ごろ隠れている根深い対立を実感した。

この年12月、シンガポールはマレーシヤ連邦から独立分離して、
「シンガポール共和国」を宣言して、多民族国家として出発した。

いま、世界各地で民族対立が激しくなり紛争がおきている。
日本は一見単一民族のように見えるが、それは大半を占める「大和民族」が、
少数民族の存在に無関心なだけではないだろうか。
しかし、時代は確実にそれを認識しなければならないはずだ。

四海に囲まれた島国・日本も「日本人」の多様化が確実に進んでいる。
島国も大陸で国境線が隣接している国々も、物理的国境線は形骸化しつつある。
地球人・国際人としての日本、それが21世紀の日本人に大きな課題となりそうだ。

1965年(昭和40)6月24日、大阪港で下船。1年4ヶ月ほどの長い乗船だった。
黒部に直行するのも面白くない!というわけで、いつものように道草だ。
「六甲山ホテル」ではウグイスが目覚めを促してくれる。
「日本に帰ってきたなあ!」と満ち足りた気分だ!

その後は定宿「ニューポートホテル」に逗留し、夜ごと三宮界隈で遊び、
日中はカンヴァスをもって港の風景や六甲付近を描いていた。

1964年(昭和39)10月、東京オリンピックが開催され、
1965年(昭和40)2月、米軍機北ベトナムを爆撃(北爆)し、
4月、ワシントンでベトナム停戦を要求する1万人のデモ行進があった。

続く

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